本書では、「欠乏感度」という概念を、人間理解の中心に置いている。
人間は、同じ世界を見ていても、同じようには反応しない。
ある人は、わずかな評価不足にも強い苦痛を感じる。
ある人は、性的刺激に非常に敏感である。
ある人は、金銭的損失に激しく反応する。
ある人は、美や芸術に強く感動する。
逆に、ほとんど反応しない人もいる。
この違いは何なのだろうか。
私は、それを「欠乏感度」の違いとして考えている。
つまり、人間は、「何をどれだけ不足として感じるか」が違うのである。
同じ状況でも、
「まだ足りない」
と強く感じる人もいれば、
「これで十分だ」
と感じる人もいる。
そして、この差が、欲望の強さや行動エネルギーの差を生み出す。
欠乏感度が高い人は、世界から多くの不足を検出する。
もっと知りたい。
もっと認められたい。
もっと美しくなりたい。
もっと強くなりたい。
もっと愛されたい。
つまり、脳が「差」を強く認識するのである。
その結果、欲望ベクトルが強く発生する。
逆に、欠乏感度が低い人は、刺激への反応が弱い。
現状への満足感は高いかもしれない。
しかし、強い行動エネルギーは生じにくい。
ここで重要なのは、本書では「欠乏感度」を善悪で扱っていないという点である。
欠乏感度が高い人は、多くの場合、
努力する。
執着する。
探索する。
競争する。
そのため、大きな成果を生むことがある。
科学者、芸術家、経営者、発明家などには、極めて高い欠乏感度を持つ人が少なくない。
しかし同時に、
苦しみやすい。
不満が多い。
比較に苦しむ。
依存しやすい。
という側面も持つ。
つまり、文明を強く動かす人間ほど、内面的には不安定である場合も多いのである。
逆に、欠乏感度が低い人は、精神的安定を得やすい。
小さな幸福で満足できる。
比較に振り回されにくい。
過剰な競争に巻き込まれにくい。
しかし、巨大な文明エネルギーを生み出す方向には進みにくい。
人類文明とは、高い欠乏感度を持つ人間たちによって加速されてきた側面がある。
科学技術も、経済も、芸術も、「まだ足りない」という感覚によって前進してきた。
完全に満足した人間だけで構成された社会では、文明発展は非常に遅くなるかもしれない。
つまり、文明とは、集団化された欠乏感度の運動でもある。
現代社会では、この欠乏感度がさらに増幅されている。
SNSによって、他人の成功が常時可視化される。
広告によって、新しい不足が作られる。
比較によって、現状への満足が壊される。
すると、人間の脳は、以前よりも多くの欠乏を感じ始める。
もっと上へ。
もっと豊かに。
もっと美しく。
もっと評価されたい。
現代文明は、巨大な欠乏増幅システムでもある。
しかし同時に、その欠乏こそが、人類を動かしている。
人間とは、欠乏を感じる存在である。
そして、その欠乏感度によって、人生の方向そのものが決定されていくのである。