人間は、なぜ生きるのだろうか。
これは、人類が繰り返し問い続けてきた問題である。
宗教。
哲学。
科学。
芸術。
あらゆる文明活動の背後には、この問いが存在している。
本書ではここまで、人間を「欲望ベクトルによって動く存在」として考えてきた。
欠乏を感じる。
欲望が生まれる。
その方向へ動く。
つまり人間とは、「静止した存在」ではなく、「世界へ向かう運動体」として理解してきたのである。
この視点から見ると、「生きる」とは、
世界との接続を持ち続けること
として理解できる。
何かを知りたい。
誰かに会いたい。
愛したい。
作りたい。
理解したい。
この「向かう方向」が存在する限り、人間は世界とつながっている。
つまり生きるとは、「ベクトルを持つこと」でもある。
ここで重要なのは、人間は完全に満たされると停止へ向かいやすいという点である。
本書で繰り返し述べてきたように、人類文明は欠乏によって動いてきた。
不足がある。
だから学ぶ。
だから働く。
だから文明が進む。
つまり人間とは、「欠乏する存在」であるからこそ動くのである。
そのため、生きるとは単なる「苦痛回避」ではない。
もし完全に苦痛も欲望も消えたなら、人間は静かな存在になるかもしれない。
しかしその時、
恋愛、
芸術、
学問、
文明、
も消えていく可能性がある。
つまり人間とは、「不足によって苦しみながら、不足によって前進する存在」なのである。
また、本書で述べてきたように、人間は比較する。
承認を求める。
愛を求める。
意味を求める。
つまり人間は、「他者との関係」の中で自分を確認している。
そのため、生きるとは単独現象ではない。
他者との接続。
社会との接続。
世界との接続。
これらを通して、人間は「自分が存在している」という感覚を維持している。
さらに、人間は「意味」を求める。
なぜ働くのか。
なぜ学ぶのか。
なぜ愛するのか。
この問いそのものも、「意味欠乏」から生まれている。
つまり人間は、単に生物学的に生きるだけでは満足しにくい。
意味を感じたい。
価値を感じたい。
これもまた、人間特有の欲望ベクトルなのである。
本書では、能力、社会、文明、戦争、経済、宗教を、すべて「欲望ベクトル」で統一的に見ようとしてきた。
そして最後に残るのは、極めて単純な構造である。
人間は不足を感じる。
だから方向が生まれる。
方向があるから動く。
動くから文明が生まれる。
つまり生きるとは、
欠乏を抱えながら、
世界へ向かい続けること
なのかもしれない。
そして人間とは、
満たされないからこそ、
愛し、
学び、
作り、
苦しみ、
文明を築く存在
なのである。
本書の視点では、「生きる意味」は外部から与えられる絶対解ではない。
それは、
自分がどの方向へ向かいたいのか、
どのベクトルを持って世界と接続するのか
によって形成される。
つまり生きるとは、
世界へ向かう自分自身のベクトルを持ち続けること
なのである。